【強迫観念に支配されない 悩んだ時に読む処方箋】 [コラム集 「TAWAGOTO」]
人は時として「ポジティブな思考であらねばならぬ」といった強迫観念にとりつかれるような気がしています。
私自身の経験で言えば学生時代、就職しなければならない時にそのような経験をしました。
仕事に関して将来の夢とか、目標とか、ライフプランとか、そんなものは全くありませんでした。
仕事なんて生きていくために仕方なくやるもんだって思っていたのです。
私は人より体も小さいし、特殊技能なども磨いてきたわけでもありませんし、せめて学校の勉強くらいは一生懸命やって人並みになろうと努力はしてきました。
でも別にいい学校に行こうとか、いい会社に行こうなんて気もあまりないし、そこそこの仕事にそこそこありつければいいやって思っていました。
でも周りの友人たちが就職活動を始めると、どんな些細な理由でもみんなそれなりに理由をもって会社を選んでいて、大きければ安心だとか、有名な会社なら潰れないだろう、くらいしか選択の理由が見当たらない自分が『なんて情けない奴だ』と思うようになりました。
自分も「やりたいこと」とか「なりたい自分」がないといけないって、そうしないと「悪」なんだってだんだんと思うようになりました。
最初は自己啓発の本を読んだりしていたのですが、いろいろなことが一気に押し寄せてきたようで自分で受け止めきれなくなりました。
そうすると、だんだんと今まで生きてきた自分を完全否定するようになり、すべてが嫌になっていきました。
それまで楽しくやっていればいいやって感じで生きてきたのに、何だか全てが虚しく何もかもにやる気がなくなって学校に行くのも嫌になりました。
もう学校も辞めてしまおうかと真剣に思いました。
真面目に人生なんてものを考えることに免疫がなさ過ぎたのだろうと思います。
私はバブル絶頂の時期に就職の季節を迎えましたので甘ったれていたのかもしれません。
きっと今みたいに就職難の時代ならこんなこと思わなかったかもしれません。
とにかく私は「きちんと人生と向き合わなければならない」とか「きちんとした考えを持っていないと生きている資格がない」というような強迫観念にとらわれていき、次第に精神的にバランスを崩していきました。
そうなっていない人から見れば取るに足らないことかもしれませんが、当時の私は完全に精神不安定な状態でした。
起きていると考えがどんどん内向的になり、自分の過去とか現在のふがいなさとかがぐるぐると巡り人と接していても些細なことをすべて自分の「悪いところ」と結び付けて考えて人と接するのも怖くなるほどでした。
だからいつも早く寝てしまいたいと思いました。
堂々巡りする思いから逃れたくていつも早寝をしていました。
学校とか用事があるとき以外はずっと寝ていたいって思いましたが夜明け頃には目が覚めて眠れませんでした。
起きている間はずっと苦しくて辛かった時間でした。
友人からは「しっかりしている」とか「自分の考えが揺らがない奴」と思われていたようですが、たったこれだけのことで人は簡単にぐらぐらして崩壊してしまうんだなって自分自身で体験しました。
真剣に精神科の治療に行こうかどうかも何度も迷いました。
状況としては、恐らく自律神経失調症だったのだと思います。
私は最後の頼みの綱のつもりで高校時代の担任の先生に電話をして会って欲しいとお願いしました。
会って今の自分の状態をありのままに話をしてそれでも状況が好転しなければ、お医者さんの世話になろうと思い詰めていました。
その先生は私が突然電話をして、
「すぐに会いたい」
なんて、ただ事ではないと感じて何も聞かずに今すぐ来いと言ってくれました。
私は支離滅裂な訴えを聞いてもらい、ちょっとだけすっきりしましたが、決して状況は良くなったわけでもありませんでした。
先生は「自分を取り戻すまでには時間がかかるな」と判断されたんだと思います。
「暇だからそんなこといろいろ考えるんだ。これから休みの日にはうちに来て仕事を手伝え。」
と言い、私を自宅に招いてくれました。
私は毎週日曜日になると先生のご自宅に伺いワープロのテープ起こしなどの先生の手伝いをしたり、セミナーに一緒に連れて行ってもらったりしました。
ご家族と一緒に食事をごちそうになったりもしました。
平日は相変わらず、対人恐怖症のような状態でしたが週末はこの先生のお蔭で少し気が紛れました。
少しずつ精神的に落ち着きを取り戻し、何とか学校を卒業することも就職することもできました。
私はこの強迫観念の延長でそれまでの学校の専攻とはまったく違う「旅行会社」という道を選んだのです。
人は悩みながら成長すると思います。
私のこの時の一連の行動は人にいろいろと迷惑をかけることになったのですが、この時の経験は人生を見つめるきっかけにもなりましたし、自分がとても弱い人間だということも思い知ることができました。
私にとって、この時の出来事はその後を生きるのに糧にはなったと思います。
でも…
私はもしかしたらあのまま潰れていたかもしれません。
私の担任の先生は、とても私のことを考えてくれましたし、きっといろいろな生徒を相手にして立ち直らせる勘所をよくご存知だったのかもしれません。
でも、もしかしたら私がこの後、病院に行って、精神の病で医者の世話になったとかその様な自分を気に病んで、常に何かを引きずってしまうような人間になっていたかもしれません。
私はたまたまうまくいったからといって自分の許容量を超えたことを突き詰めて考えるようなことが必ずしもいいことばかりだとは思いません。
確かに「ポジティブに生きることは素晴らしい」ことだと思います。
でも状況によって、それまでの環境によって、学んだ知識によって、会った人によって、そんなに上手にポジティブになれないこともあると思います。
なれない人もいると思いますし、なれないタイミングである場合もあると思います。
もし人と比べたりして「自分ってなんだか情けない」とか、「もっとちゃんとしなくちゃ」って思った時に必要以上に悩み過ぎないことをお勧めします。
夢を持っていなかったり、ポジティブでないからと言って、自分を責めたりしないで欲しいと思います。
人にはそれぞれいろいろな許容量、思いを馳せるキャパシティのようなものがあると思います。
人があれこれ難しいことを考えているからといって自分がそんなに難しいことを考えていないからといって卑下する必要なんてないと思います。
自分ができる範囲でやればいいと思います。
確かに人は悩みながら成長すると思います。
でも悩み過ぎて成長するどころか自分を潰してしまうことだってあります。
誰もが、みんな素敵な夢なんか持って生きてるわけでもありません。
誰もが、何でも話せる友達を持っているわけでもありません。
そんな風に「理想の何か」に追われるように、自分を無理やり「こうあるべきだ」と責めないで欲しいと思います。
本当に自分にとって必要なことなら、「時」が来れば、
考えなくても自然に自分から体が動いてしまうことでしょう。
私はあの時の自分を思い出すとき自分のことを人と比べて悩んでいる人に「こうあるべき自分」なんてどこにもないと言いたいです。
先述の先生をはじめ、当時の私を支えてくれた周りの人たちに感謝します。
当時の彼女、今の妻ですが、きっと自分の彼氏があれほどまでに精神的に参ってしまってきっと戸惑いどうしていいかわからなかったと思います。
それでも「どうすべきだ」と一言も言わずに、先生の家に訳も分からず一緒に来てくれたりしたことを心から感謝しています。
心が弱っているときに「~した方がいい」って言われても、きっとますます心が弱ってしまっていたでしょうから…
私自身の経験で言えば学生時代、就職しなければならない時にそのような経験をしました。
仕事に関して将来の夢とか、目標とか、ライフプランとか、そんなものは全くありませんでした。
仕事なんて生きていくために仕方なくやるもんだって思っていたのです。
私は人より体も小さいし、特殊技能なども磨いてきたわけでもありませんし、せめて学校の勉強くらいは一生懸命やって人並みになろうと努力はしてきました。
でも別にいい学校に行こうとか、いい会社に行こうなんて気もあまりないし、そこそこの仕事にそこそこありつければいいやって思っていました。
でも周りの友人たちが就職活動を始めると、どんな些細な理由でもみんなそれなりに理由をもって会社を選んでいて、大きければ安心だとか、有名な会社なら潰れないだろう、くらいしか選択の理由が見当たらない自分が『なんて情けない奴だ』と思うようになりました。
自分も「やりたいこと」とか「なりたい自分」がないといけないって、そうしないと「悪」なんだってだんだんと思うようになりました。
最初は自己啓発の本を読んだりしていたのですが、いろいろなことが一気に押し寄せてきたようで自分で受け止めきれなくなりました。
そうすると、だんだんと今まで生きてきた自分を完全否定するようになり、すべてが嫌になっていきました。
それまで楽しくやっていればいいやって感じで生きてきたのに、何だか全てが虚しく何もかもにやる気がなくなって学校に行くのも嫌になりました。
もう学校も辞めてしまおうかと真剣に思いました。
真面目に人生なんてものを考えることに免疫がなさ過ぎたのだろうと思います。
私はバブル絶頂の時期に就職の季節を迎えましたので甘ったれていたのかもしれません。
きっと今みたいに就職難の時代ならこんなこと思わなかったかもしれません。
とにかく私は「きちんと人生と向き合わなければならない」とか「きちんとした考えを持っていないと生きている資格がない」というような強迫観念にとらわれていき、次第に精神的にバランスを崩していきました。
そうなっていない人から見れば取るに足らないことかもしれませんが、当時の私は完全に精神不安定な状態でした。
起きていると考えがどんどん内向的になり、自分の過去とか現在のふがいなさとかがぐるぐると巡り人と接していても些細なことをすべて自分の「悪いところ」と結び付けて考えて人と接するのも怖くなるほどでした。
だからいつも早く寝てしまいたいと思いました。
堂々巡りする思いから逃れたくていつも早寝をしていました。
学校とか用事があるとき以外はずっと寝ていたいって思いましたが夜明け頃には目が覚めて眠れませんでした。
起きている間はずっと苦しくて辛かった時間でした。
友人からは「しっかりしている」とか「自分の考えが揺らがない奴」と思われていたようですが、たったこれだけのことで人は簡単にぐらぐらして崩壊してしまうんだなって自分自身で体験しました。
真剣に精神科の治療に行こうかどうかも何度も迷いました。
状況としては、恐らく自律神経失調症だったのだと思います。
私は最後の頼みの綱のつもりで高校時代の担任の先生に電話をして会って欲しいとお願いしました。
会って今の自分の状態をありのままに話をしてそれでも状況が好転しなければ、お医者さんの世話になろうと思い詰めていました。
その先生は私が突然電話をして、
「すぐに会いたい」
なんて、ただ事ではないと感じて何も聞かずに今すぐ来いと言ってくれました。
私は支離滅裂な訴えを聞いてもらい、ちょっとだけすっきりしましたが、決して状況は良くなったわけでもありませんでした。
先生は「自分を取り戻すまでには時間がかかるな」と判断されたんだと思います。
「暇だからそんなこといろいろ考えるんだ。これから休みの日にはうちに来て仕事を手伝え。」
と言い、私を自宅に招いてくれました。
私は毎週日曜日になると先生のご自宅に伺いワープロのテープ起こしなどの先生の手伝いをしたり、セミナーに一緒に連れて行ってもらったりしました。
ご家族と一緒に食事をごちそうになったりもしました。
平日は相変わらず、対人恐怖症のような状態でしたが週末はこの先生のお蔭で少し気が紛れました。
少しずつ精神的に落ち着きを取り戻し、何とか学校を卒業することも就職することもできました。
私はこの強迫観念の延長でそれまでの学校の専攻とはまったく違う「旅行会社」という道を選んだのです。
人は悩みながら成長すると思います。
私のこの時の一連の行動は人にいろいろと迷惑をかけることになったのですが、この時の経験は人生を見つめるきっかけにもなりましたし、自分がとても弱い人間だということも思い知ることができました。
私にとって、この時の出来事はその後を生きるのに糧にはなったと思います。
でも…
私はもしかしたらあのまま潰れていたかもしれません。
私の担任の先生は、とても私のことを考えてくれましたし、きっといろいろな生徒を相手にして立ち直らせる勘所をよくご存知だったのかもしれません。
でも、もしかしたら私がこの後、病院に行って、精神の病で医者の世話になったとかその様な自分を気に病んで、常に何かを引きずってしまうような人間になっていたかもしれません。
私はたまたまうまくいったからといって自分の許容量を超えたことを突き詰めて考えるようなことが必ずしもいいことばかりだとは思いません。
確かに「ポジティブに生きることは素晴らしい」ことだと思います。
でも状況によって、それまでの環境によって、学んだ知識によって、会った人によって、そんなに上手にポジティブになれないこともあると思います。
なれない人もいると思いますし、なれないタイミングである場合もあると思います。
もし人と比べたりして「自分ってなんだか情けない」とか、「もっとちゃんとしなくちゃ」って思った時に必要以上に悩み過ぎないことをお勧めします。
夢を持っていなかったり、ポジティブでないからと言って、自分を責めたりしないで欲しいと思います。
人にはそれぞれいろいろな許容量、思いを馳せるキャパシティのようなものがあると思います。
人があれこれ難しいことを考えているからといって自分がそんなに難しいことを考えていないからといって卑下する必要なんてないと思います。
自分ができる範囲でやればいいと思います。
確かに人は悩みながら成長すると思います。
でも悩み過ぎて成長するどころか自分を潰してしまうことだってあります。
誰もが、みんな素敵な夢なんか持って生きてるわけでもありません。
誰もが、何でも話せる友達を持っているわけでもありません。
そんな風に「理想の何か」に追われるように、自分を無理やり「こうあるべきだ」と責めないで欲しいと思います。
本当に自分にとって必要なことなら、「時」が来れば、
考えなくても自然に自分から体が動いてしまうことでしょう。
私はあの時の自分を思い出すとき自分のことを人と比べて悩んでいる人に「こうあるべき自分」なんてどこにもないと言いたいです。
先述の先生をはじめ、当時の私を支えてくれた周りの人たちに感謝します。
当時の彼女、今の妻ですが、きっと自分の彼氏があれほどまでに精神的に参ってしまってきっと戸惑いどうしていいかわからなかったと思います。
それでも「どうすべきだ」と一言も言わずに、先生の家に訳も分からず一緒に来てくれたりしたことを心から感謝しています。
心が弱っているときに「~した方がいい」って言われても、きっとますます心が弱ってしまっていたでしょうから…
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【好き嫌いを言って何が悪い? 「嫌いなものを好きになれ」という無理難題】 [コラム集 「TAWAGOTO」]
「好き嫌いをなくしましょう!」って、割と普通に言われますよね。
私は「好き嫌いの感情を持つことが悪」と言っている様に聞こえて、「好き嫌いをなくしましょう」という言葉にかなり抵抗があります。
ちょっと言葉遊びや屁理屈みたいになってしまいますが、例えばニンジンが嫌いな子に「好き嫌いはダメよ、ニンジンも食べなさい!」って、言うときに子供に言うべきこと、伝えるべきことはその子供がニンジンが嫌いであることを諌めることではなく、
「ニンジンを食べること」
だと私は思うのです。
栄養に偏りなく食事をすること、用意された食材を無駄にしないこと、贅沢言わず、
「ガタガタ言わず、出されたものをさっさと食べろ!」
ってことだと思います。
「好き嫌いはダメよ」って言う時に、
「好き嫌い」そのものを無くすべきと言っているのか、「好き嫌い」から生じる『偏食』という「弊害」が悪と言っているのかをあいまいにして欲しくないのです。
当然、好き嫌いを無くせば弊害である『偏食の元』を絶てるので効果は高いです。
そのため「好き嫌いを無くせ」というのが本意なのかもしれませんが、「好き嫌い」という感情を無くせって私にはちょっと『無理難題』な感じがするのです。
確かに食べ物は『食わず嫌い』ということもありますし、『食べてるうちに好きになる』ということもあります。
でも「食べてみたら美味しい」とか、「最初嫌いだったけど食べてるうちに好きになった!」って感じるのは、その本人が感じることであって『人から強制される』ようなものではないと思うのです。
『躾け』として、嫌いな食べ物でも食べさせるのは必要なことだと思いますし、「見た目などで食わず嫌いになっているものを好きになるきっかけ」を与えることも周りの大人として必要なことかもしれません。
でもちょっと大げさな言い方をすると「嫌いなものを好きになれ!」なんて言う権利、あるのかな?って思います。
親ならまだしも赤の他人がそう簡単に言えることじゃない…、そう思うんです。
翻って…
人間関係についても同じようなことってある様な気がしてます。
「何で〇〇ちゃんのことを好きになれないの?」とか、ちょっと無理難題ですよね。
幼児期など他者の認識能力が低いうちはともかくとして、ある程度分別がつくようになったら子どもであっても「嫌いな奴がいること」を悪だなんて言っちゃまずいような…。
だって大人になったらそんなの普通にあることですから…。
しかも嫌いになるのなんてそんなに大した理由がなかったりするわけですから…。
まぁ「嫌いになる」というより、「好きになれない」と言った方がしっくりきますでしょうか…。
「虫が好かない」奴なんて一人や二人、誰でもいるもんじゃないかと思います。
そんな好き嫌いって正直いって、みんな『胸の内に秘めておくもの』です。
ことさらに表だってそんな話をするなんて、「はしたない」ような…。
子供の世界だって、ある程度の年齢になれば苦手な奴とだって日常生活をうまく折り合いをつけながらやっていかなきゃならないことぐらい大抵理解して実践していると思います。
そういうことができないと、衝突したり、人間関係のトラブルに発展することが多いと思います。
そんなときに「どうして好きになれないの?」なんて言われたら、その子(その人)はどうしていいか、かなり悩むんじゃないかなと…。
「嫌いな奴と適当に折り合いをつけてうまくやっていく」なんてことが苦手な子供(大人でもいると思いますが)は日常生活がしんどいだろうなぁとは思いますが、「好きになれ」って言われるよりはましかなぁって、思います。
私は人間関係において「好き嫌い」って人間として当たり前の感情だと思っています。
人はそもそもそれぞれ違う考えを持って生きているもので好き嫌いが出るのも当たり前です。
それでも集団で生活していれば、うまく付き合っていく必要があります。
だから嫌いな奴とも適当につきあっていく術を持つことが大事なのです。
我慢することも必要です。
食べ物にも「食わず嫌い」がある様に人間関係にもその人のことを良く知らなかったために好きになれなかった、なんてこともあると思います。
私自身、深く付き合ってその人のことを良く知るようになって、「意外にいい奴だな」って考え直したような経験もあります。
でも、その反対に決定的な理由はなくても「どうも好きになれない」人もいます。
好きとか嫌いとかって、理由なんてないんです。
どうしても、好きになれないのは生理的にダメなんで、
「理由がなく、人やモノを嫌いになるのはいけないこと」なんて、言われたら、
大げさに言ったら、「自分を否定」されているのに等しい、私はそんな風に考えています。
「嫌い」とか「気に入らない」というだけの理由で、ひどい言葉を浴びせたり、暴力をふるったり、仲間外れにしたり、そんなことをするのは許せない行為です。
もし、そのようなことをする子供がいるのなら大人はきちんといけないことだとして止めさせるべきだと思います。
ただ…、それでも…、
「その子を嫌いだということ」まで否定する権利は誰も持っていないと思います。
嫌いな子に対しても暴力をふるったりすることは許されないということをきちんと教えたり、嫌いな食べ物でもきちんと食べないと栄養が偏ってしまうから、それは贅沢だから、と我慢して食べなければいけないことをきちんと教えられる大人になりたいです。
それと同時に…、
もし誰かのことを嫌いになってしまっている自分に嫌悪感や罪悪感でも持っている人がいたら、「そんなの当たり前のことですよ、気にする必要ないですよ。」
って言える大人でもありたいと思います。
私は「好き嫌いの感情を持つことが悪」と言っている様に聞こえて、「好き嫌いをなくしましょう」という言葉にかなり抵抗があります。
ちょっと言葉遊びや屁理屈みたいになってしまいますが、例えばニンジンが嫌いな子に「好き嫌いはダメよ、ニンジンも食べなさい!」って、言うときに子供に言うべきこと、伝えるべきことはその子供がニンジンが嫌いであることを諌めることではなく、
「ニンジンを食べること」
だと私は思うのです。
栄養に偏りなく食事をすること、用意された食材を無駄にしないこと、贅沢言わず、
「ガタガタ言わず、出されたものをさっさと食べろ!」
ってことだと思います。
「好き嫌いはダメよ」って言う時に、
「好き嫌い」そのものを無くすべきと言っているのか、「好き嫌い」から生じる『偏食』という「弊害」が悪と言っているのかをあいまいにして欲しくないのです。
当然、好き嫌いを無くせば弊害である『偏食の元』を絶てるので効果は高いです。
そのため「好き嫌いを無くせ」というのが本意なのかもしれませんが、「好き嫌い」という感情を無くせって私にはちょっと『無理難題』な感じがするのです。
確かに食べ物は『食わず嫌い』ということもありますし、『食べてるうちに好きになる』ということもあります。
でも「食べてみたら美味しい」とか、「最初嫌いだったけど食べてるうちに好きになった!」って感じるのは、その本人が感じることであって『人から強制される』ようなものではないと思うのです。
『躾け』として、嫌いな食べ物でも食べさせるのは必要なことだと思いますし、「見た目などで食わず嫌いになっているものを好きになるきっかけ」を与えることも周りの大人として必要なことかもしれません。
でもちょっと大げさな言い方をすると「嫌いなものを好きになれ!」なんて言う権利、あるのかな?って思います。
親ならまだしも赤の他人がそう簡単に言えることじゃない…、そう思うんです。
翻って…
人間関係についても同じようなことってある様な気がしてます。
「何で〇〇ちゃんのことを好きになれないの?」とか、ちょっと無理難題ですよね。
幼児期など他者の認識能力が低いうちはともかくとして、ある程度分別がつくようになったら子どもであっても「嫌いな奴がいること」を悪だなんて言っちゃまずいような…。
だって大人になったらそんなの普通にあることですから…。
しかも嫌いになるのなんてそんなに大した理由がなかったりするわけですから…。
まぁ「嫌いになる」というより、「好きになれない」と言った方がしっくりきますでしょうか…。
「虫が好かない」奴なんて一人や二人、誰でもいるもんじゃないかと思います。
そんな好き嫌いって正直いって、みんな『胸の内に秘めておくもの』です。
ことさらに表だってそんな話をするなんて、「はしたない」ような…。
子供の世界だって、ある程度の年齢になれば苦手な奴とだって日常生活をうまく折り合いをつけながらやっていかなきゃならないことぐらい大抵理解して実践していると思います。
そういうことができないと、衝突したり、人間関係のトラブルに発展することが多いと思います。
そんなときに「どうして好きになれないの?」なんて言われたら、その子(その人)はどうしていいか、かなり悩むんじゃないかなと…。
「嫌いな奴と適当に折り合いをつけてうまくやっていく」なんてことが苦手な子供(大人でもいると思いますが)は日常生活がしんどいだろうなぁとは思いますが、「好きになれ」って言われるよりはましかなぁって、思います。
私は人間関係において「好き嫌い」って人間として当たり前の感情だと思っています。
人はそもそもそれぞれ違う考えを持って生きているもので好き嫌いが出るのも当たり前です。
それでも集団で生活していれば、うまく付き合っていく必要があります。
だから嫌いな奴とも適当につきあっていく術を持つことが大事なのです。
我慢することも必要です。
食べ物にも「食わず嫌い」がある様に人間関係にもその人のことを良く知らなかったために好きになれなかった、なんてこともあると思います。
私自身、深く付き合ってその人のことを良く知るようになって、「意外にいい奴だな」って考え直したような経験もあります。
でも、その反対に決定的な理由はなくても「どうも好きになれない」人もいます。
好きとか嫌いとかって、理由なんてないんです。
どうしても、好きになれないのは生理的にダメなんで、
「理由がなく、人やモノを嫌いになるのはいけないこと」なんて、言われたら、
大げさに言ったら、「自分を否定」されているのに等しい、私はそんな風に考えています。
「嫌い」とか「気に入らない」というだけの理由で、ひどい言葉を浴びせたり、暴力をふるったり、仲間外れにしたり、そんなことをするのは許せない行為です。
もし、そのようなことをする子供がいるのなら大人はきちんといけないことだとして止めさせるべきだと思います。
ただ…、それでも…、
「その子を嫌いだということ」まで否定する権利は誰も持っていないと思います。
嫌いな子に対しても暴力をふるったりすることは許されないということをきちんと教えたり、嫌いな食べ物でもきちんと食べないと栄養が偏ってしまうから、それは贅沢だから、と我慢して食べなければいけないことをきちんと教えられる大人になりたいです。
それと同時に…、
もし誰かのことを嫌いになってしまっている自分に嫌悪感や罪悪感でも持っている人がいたら、「そんなの当たり前のことですよ、気にする必要ないですよ。」
って言える大人でもありたいと思います。
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【焼き鳥1500本 いかがっすか? ~組長の仕事~】 [コラム集 「TAWAGOTO」]
今日は、自治会の盆踊りでした。
私は、第13組の組長なので出番です。
引っ越ししてきた頃は何度か手伝っていましたが、最近はご無沙汰していました。
久しぶりにやりました。「焼き鳥」の屋台。
炭焼きで焼くと、太ももがとても熱くなります。
しかも炭の火力を調節するのが、難しく、時々火柱の様に炎が舞い上がります。
こんな感じです。
今回なんと『ガスボンベと焼き鳥焼き器』の登場です!
自治会長さんが『焼き手』のことを気遣ってレンタルしてきて下さいました。
火を起こすのも簡単ですし、火力調節も簡単ですし、何と言っても、太ももが熱くなりません。
今晩は、1500本を焼きました。
人気商品なので3人で焼いても全然追いつかず行列ができる場面も…。
常にパックを持って構える「詰め係り」のおじさんが待っていて、急いで焼いても追いつきません。
今日は天気も良く盆踊り日和でしたが、焼くのに必死で気づいたら夜の8時半…。
踊りを一つも見ていませんでした。(^_^.)
途中、焼き器の下の水がなくなって、引火して火柱が上がるというアクシデントもありましたが、怪我人もなく無事焼き切ることができました。(^_^;)
今回、暑さ対策で妻が「冷やしタオル」を買っておいてくれました。
タオルに小さなアイスノンが入れられて首筋を冷やせるやつです。
しかも1時間ごとに息子が入れ替え用の冷えたアイスノンを持ってきてくれて、快適?に焼き鳥を焼けました。
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【日本の戦争のこと 両親から聞いたこと、映画「火垂るの墓」を観て感じたこと】 [コラム集 「TAWAGOTO」]
70年ほど前に戦争をしていた国とは信じられません。
世界では今も戦争や紛争で穏やかに暮らせない人々がいる中で日本は戦争とは無縁に暮らすことができます。
確かに大きな震災やいろいろな災害が襲い犯罪もあったりして、決して平和に過ごせる国とは言えないかもしれませんが、それでも空から爆弾は降ってはきません。
私は、常々戦争を体験した人には敵わないって思う時があります。
良い、悪いではなく、危険や死と隣り合わせの暮らしを体験した人って、そうじゃない人と違うのではないかと考えるからです。
しかも極端に貧しいひもじい思いを我慢しなければならず、それがいつまで続くかもわからない…。
災害であれば世界の人たちからも救いの手が伸びることもあるかもしれませんが、世界中を敵に回して、しかも日本中がみんな貧しくて辛い日々を過ごしていたなんて…
私の父は9歳、母は6歳で終戦を迎えています。
大人として戦争は見てきていないかもしれませんが辛い日々を体験しています。
しょっちゅう聞かされていたわけではありませんがときどき話を聞いたことがあります。
とにかく食べるものがなくていつもお腹を空かしていたこと、どんなものでも口にしたこと、それは植物の根っこだったり、昆虫だったり…。
母は空襲があるたびにそのときの生活をすべて放棄して防空壕に逃げ込むことに嫌気がさして、
「もう死んでもいいからここにいる!」
と言い張って家族にこっぴどく叱られたそうです。
父も母も7人兄弟で、きっと子供を育てるのは本当に祖父も祖母も大変だったことでしょう。
私たちが普段思っている苦労など苦労のうちに入らないと思います。
「腹減った」という子供たちを見てさぞかし辛い思いだったに違いありません。
戦争が起きればこのように辛い目に遭う人が沢山出ることでしょう。
また普段なら優しいはずの人たちが厳しいことを言わなくてはならなくなるのでしょう。
何度も観た映画「火垂るの墓」で、そういうことを思わせてくれます。
この映画の中で両親を亡くした兄妹が周りの大人たちから決して優しさだけではない仕打ちを受け、最後は悲しい兄妹の別れがくることになります。
でも、きっとそんな仕打ちをした大人たちだって、戦争がなければ決してそんなに悪い人にはならなかったでしょう。
もちろん、どんな状況でも自分を変えずに生きていける強い人もいるのでしょうが、人はそれほど強くはないと思います。
現在、日本はかつての成長期と比べると、ちょっと「落ち目な」気がします。
世の中もなんだか厳しい感じが漂っています。
でも戦争でひもじい思いをしていたときほどひどくはないと思います。
確かに震災で被害に遭われた方々にとっては同じくらい辛い日々なのかもしれません。
ただ戦争のときほど「どうしようもない」状態ではないはずです。
ありきたりですが戦争を二度と起こしてはならないと思います。
そして戦争ほどひどくないのに人に優しくできない大人にならないようにしたいものです。
世界では今も戦争や紛争で穏やかに暮らせない人々がいる中で日本は戦争とは無縁に暮らすことができます。
確かに大きな震災やいろいろな災害が襲い犯罪もあったりして、決して平和に過ごせる国とは言えないかもしれませんが、それでも空から爆弾は降ってはきません。
私は、常々戦争を体験した人には敵わないって思う時があります。
良い、悪いではなく、危険や死と隣り合わせの暮らしを体験した人って、そうじゃない人と違うのではないかと考えるからです。
しかも極端に貧しいひもじい思いを我慢しなければならず、それがいつまで続くかもわからない…。
災害であれば世界の人たちからも救いの手が伸びることもあるかもしれませんが、世界中を敵に回して、しかも日本中がみんな貧しくて辛い日々を過ごしていたなんて…
私の父は9歳、母は6歳で終戦を迎えています。
大人として戦争は見てきていないかもしれませんが辛い日々を体験しています。
しょっちゅう聞かされていたわけではありませんがときどき話を聞いたことがあります。
とにかく食べるものがなくていつもお腹を空かしていたこと、どんなものでも口にしたこと、それは植物の根っこだったり、昆虫だったり…。
母は空襲があるたびにそのときの生活をすべて放棄して防空壕に逃げ込むことに嫌気がさして、
「もう死んでもいいからここにいる!」
と言い張って家族にこっぴどく叱られたそうです。
父も母も7人兄弟で、きっと子供を育てるのは本当に祖父も祖母も大変だったことでしょう。
私たちが普段思っている苦労など苦労のうちに入らないと思います。
「腹減った」という子供たちを見てさぞかし辛い思いだったに違いありません。
戦争が起きればこのように辛い目に遭う人が沢山出ることでしょう。
また普段なら優しいはずの人たちが厳しいことを言わなくてはならなくなるのでしょう。
何度も観た映画「火垂るの墓」で、そういうことを思わせてくれます。
この映画の中で両親を亡くした兄妹が周りの大人たちから決して優しさだけではない仕打ちを受け、最後は悲しい兄妹の別れがくることになります。
でも、きっとそんな仕打ちをした大人たちだって、戦争がなければ決してそんなに悪い人にはならなかったでしょう。
もちろん、どんな状況でも自分を変えずに生きていける強い人もいるのでしょうが、人はそれほど強くはないと思います。
現在、日本はかつての成長期と比べると、ちょっと「落ち目な」気がします。
世の中もなんだか厳しい感じが漂っています。
でも戦争でひもじい思いをしていたときほどひどくはないと思います。
確かに震災で被害に遭われた方々にとっては同じくらい辛い日々なのかもしれません。
ただ戦争のときほど「どうしようもない」状態ではないはずです。
ありきたりですが戦争を二度と起こしてはならないと思います。
そして戦争ほどひどくないのに人に優しくできない大人にならないようにしたいものです。
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【会釈という文化…】 [コラム集 「TAWAGOTO」]
声に出すほどではないけど、ちょっと何かをしてもらった時などに、会釈するという文化…、
私はとても良い習慣だと思っています。
狭い通路などで道を譲ってもらった時、エレベーターで「開く」ボタンを押して先に通してもらった時、そんなときに会釈をする人と何もなくいってしまう人では印象が違って感じます。
する・しないは年代も関係なく若い人でもする人はするし年配の方でもしない人はしない。
まずは「会釈」という言葉について調べてみました。
国語辞典的に言えば、
「軽くあいさつや礼を交わすこと。また、そのあいさつや礼を示す所作。」
ということになるようです。
会釈(えしゃく)とは仏教用語から来ているとのことでした。
「仏典の二律背反(相互に自己矛盾する教説)を照合し矛盾のない解釈を導き出すこと。」
とのことです。
具体的にどういうことか、ちょっと理解するのは難しいですが、
転じて「他者の矛盾を解消すること」となり、
「人間相互の融和」という意味が更に「挨拶」へとなったといいます。
このような言葉の変遷・由来を見ると、「会釈」というものが人間同士のちょっとした気遣いによる「潤滑油」として機能することがわかる様な気がします。
会釈は「お辞儀」の仕方のひとつです。
その仕方によって「会釈」になったり「敬礼」になったり「最敬礼」になったりするそうです。
マナーの基本として就職の準備として教わったり社会人としての研修の対象であったりまた武術の入口であったりするようです。
「会釈」は上体の角度を15度にするのが『正式』なんですね。
私が「されると気持ちいいなぁ」って思っているのはこういった正式な「会釈」でなくてもいいんですね。
何となく「あ、すみません。」とか「ありがとうございます。」って自然な気持ちが伝わってくるような「会釈」がいいかなって…。
ちなみに私の中ではこれと対照的なお辞儀が、最近いろいろなお店で『してもらえるお辞儀』です。
お腹の前に両掌を揃えて、深々と状態をかがめる感じ。
視線も床を見るような…。
確かにとても丁寧ではありますが、急いでいる時などにこの「馬鹿丁寧なお辞儀」をされると正直なところ、「ありがた迷惑」というか、「やり過ぎでしょ?」って感じです。
最近はコンビニやスーパー、果てはディスカウントショップなどでも…。
まぁ、気に入らなければ行かなければいいだけのことかもしれませんが…。
何故そう思うかって考えたら「TPOがしっくりきていない」というか、一言で言うと『自然じゃない』ってことのような気がしています。
短時間の研修などで「粗相の無いように丁寧に接客させる」一つの方法なのかもしれませんが、「相手の気持ちを無視している」感じがするのですね。
まぁ、『無視している』というとちょっと言い過ぎかもしれませんが、あまり「相手の気持ちを意識していない」というか…。
頭の下げ方はほんのちょっぴり、場合によっては首を傾げた程度の『会釈』であっても、『間合い』や醸し出す雰囲気が絶妙ならば、こちらにその気持ちがとても伝わる、それが『会釈』の良いところだと思います。
恐らく『会釈』をしないことで『損してる』ってこと、あるんじゃないかと思います。
『会釈』が上手なだけで人から何となく好感を持たれるんじゃないかなって…。
そして、それは角度とかそんなに重要ではない様な気がしてます。
私はとても良い習慣だと思っています。
狭い通路などで道を譲ってもらった時、エレベーターで「開く」ボタンを押して先に通してもらった時、そんなときに会釈をする人と何もなくいってしまう人では印象が違って感じます。
する・しないは年代も関係なく若い人でもする人はするし年配の方でもしない人はしない。
まずは「会釈」という言葉について調べてみました。
国語辞典的に言えば、
「軽くあいさつや礼を交わすこと。また、そのあいさつや礼を示す所作。」
ということになるようです。
会釈(えしゃく)とは仏教用語から来ているとのことでした。
「仏典の二律背反(相互に自己矛盾する教説)を照合し矛盾のない解釈を導き出すこと。」
とのことです。
具体的にどういうことか、ちょっと理解するのは難しいですが、
転じて「他者の矛盾を解消すること」となり、
「人間相互の融和」という意味が更に「挨拶」へとなったといいます。
このような言葉の変遷・由来を見ると、「会釈」というものが人間同士のちょっとした気遣いによる「潤滑油」として機能することがわかる様な気がします。
会釈は「お辞儀」の仕方のひとつです。
その仕方によって「会釈」になったり「敬礼」になったり「最敬礼」になったりするそうです。
マナーの基本として就職の準備として教わったり社会人としての研修の対象であったりまた武術の入口であったりするようです。
「会釈」は上体の角度を15度にするのが『正式』なんですね。
私が「されると気持ちいいなぁ」って思っているのはこういった正式な「会釈」でなくてもいいんですね。
何となく「あ、すみません。」とか「ありがとうございます。」って自然な気持ちが伝わってくるような「会釈」がいいかなって…。
ちなみに私の中ではこれと対照的なお辞儀が、最近いろいろなお店で『してもらえるお辞儀』です。
お腹の前に両掌を揃えて、深々と状態をかがめる感じ。
視線も床を見るような…。
確かにとても丁寧ではありますが、急いでいる時などにこの「馬鹿丁寧なお辞儀」をされると正直なところ、「ありがた迷惑」というか、「やり過ぎでしょ?」って感じです。
最近はコンビニやスーパー、果てはディスカウントショップなどでも…。
まぁ、気に入らなければ行かなければいいだけのことかもしれませんが…。
何故そう思うかって考えたら「TPOがしっくりきていない」というか、一言で言うと『自然じゃない』ってことのような気がしています。
短時間の研修などで「粗相の無いように丁寧に接客させる」一つの方法なのかもしれませんが、「相手の気持ちを無視している」感じがするのですね。
まぁ、『無視している』というとちょっと言い過ぎかもしれませんが、あまり「相手の気持ちを意識していない」というか…。
頭の下げ方はほんのちょっぴり、場合によっては首を傾げた程度の『会釈』であっても、『間合い』や醸し出す雰囲気が絶妙ならば、こちらにその気持ちがとても伝わる、それが『会釈』の良いところだと思います。
恐らく『会釈』をしないことで『損してる』ってこと、あるんじゃないかと思います。
『会釈』が上手なだけで人から何となく好感を持たれるんじゃないかなって…。
そして、それは角度とかそんなに重要ではない様な気がしてます。
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