【私の入院生活の思い出 幼稚園児の縁台将棋】 [懐かしの話]
私が幼稚園児の時に入院したことをお伝えしたいと思います。
足を骨折し入院した経緯は、【遊動円木(ゆうどうえんぼく)って知ってますか?】の記事に詳しく書きましたのでそちらをご参照ください。
もちろん怪我をしたときは痛かったですし手術前後は水を飲めなくて辛かったり、決して良い思い出ではないのですが、この入院生活、私にとっては悪くない生活ではありました。
飽きてしまうだろうからと父は私に将棋を教えてくれて、入院しているおじさんたちと将棋を指すのが日課でした。
縁台将棋でおじさんたちと盛り上がれたのが楽しかったからです。
幼稚園児とおじさんが将棋を指しているのが面白かったのでしょう。
沢山、まわりにギャラリーが集まってきて、幼稚園児相手に将棋を指しているおじさんを『外野』のおじさんたちがからかったりしているのがとても楽しかったのです。
もちろん勝負にはならなかったでしょうが、おじさんたちもどうせ暇だろうから、盛り上がるように指してくれていたんだろうと思います。
私が勝った時には、ギャラリーはそれはもうスゴイ盛り上がりでした
(^o^)
ただ、一つだけ、病院がトラウマになる日課がありました。
それは毎日やってくる、注射の時間です。
とても太いやつをお尻に毎日やられるわけです。
痛いだけでなく、刺されたところのお肉が固くなってしまうような感じがとても嫌でした。
いつも大声で叫んで嫌がったのを覚えています。
ときどき将棋仲間のおじさんに大声で、
「おじさん!助けて!」なんて助けを求めていました。
退院してもしばらくはギプスをはめて過ごしていましたが、ようやく術後の経過も良くなりギプスが取れる日が来ました。
それも私には衝撃でした。
なんか電気のこぎりみたいな奴でギプスを切るんですね。
その器具を見た時にびっくりしたのを覚えています。
「足を切られちゃうんじゃないか」と真剣に心配しました。
ギプスが取れてからもリハビリをしなければならず、病院に通いました。
母親はさぞかし大変だったろうと思います。足が不自由な私を自転車の後ろに乗せて駅まで行き、そこからバスで病院まで通いました。
病院では「ろう」をどろどろに溶かした中に足をつけるという治療を受けたりしました。
父は、私が松葉づえを使いながら、もしくは手すりをつたいながら、ぎこちない歩き方しかできないのを見て、何度も母に「本当に大丈夫か?普通に歩けるようになるのか?」と、先生に聞いて来いって言っていたそうです。
あんまり何度も言うものだから、さすがに母もしつこく先生に聞くわけにもいかず、
「そんなに心配なら自分で聞いて来い!(怒)」ってキレたらしいですが…。
そんなこんなで、私の入院生活は家族の生活に大きな影響を与えたことと思いますが、無事終えることができました。
足を骨折し入院した経緯は、【遊動円木(ゆうどうえんぼく)って知ってますか?】の記事に詳しく書きましたのでそちらをご参照ください。
もちろん怪我をしたときは痛かったですし手術前後は水を飲めなくて辛かったり、決して良い思い出ではないのですが、この入院生活、私にとっては悪くない生活ではありました。
飽きてしまうだろうからと父は私に将棋を教えてくれて、入院しているおじさんたちと将棋を指すのが日課でした。
縁台将棋でおじさんたちと盛り上がれたのが楽しかったからです。
幼稚園児とおじさんが将棋を指しているのが面白かったのでしょう。
沢山、まわりにギャラリーが集まってきて、幼稚園児相手に将棋を指しているおじさんを『外野』のおじさんたちがからかったりしているのがとても楽しかったのです。
もちろん勝負にはならなかったでしょうが、おじさんたちもどうせ暇だろうから、盛り上がるように指してくれていたんだろうと思います。
私が勝った時には、ギャラリーはそれはもうスゴイ盛り上がりでした
(^o^)
ただ、一つだけ、病院がトラウマになる日課がありました。
それは毎日やってくる、注射の時間です。
とても太いやつをお尻に毎日やられるわけです。
痛いだけでなく、刺されたところのお肉が固くなってしまうような感じがとても嫌でした。
いつも大声で叫んで嫌がったのを覚えています。
ときどき将棋仲間のおじさんに大声で、
「おじさん!助けて!」なんて助けを求めていました。
退院してもしばらくはギプスをはめて過ごしていましたが、ようやく術後の経過も良くなりギプスが取れる日が来ました。
それも私には衝撃でした。
なんか電気のこぎりみたいな奴でギプスを切るんですね。
その器具を見た時にびっくりしたのを覚えています。
「足を切られちゃうんじゃないか」と真剣に心配しました。
ギプスが取れてからもリハビリをしなければならず、病院に通いました。
母親はさぞかし大変だったろうと思います。足が不自由な私を自転車の後ろに乗せて駅まで行き、そこからバスで病院まで通いました。
病院では「ろう」をどろどろに溶かした中に足をつけるという治療を受けたりしました。
父は、私が松葉づえを使いながら、もしくは手すりをつたいながら、ぎこちない歩き方しかできないのを見て、何度も母に「本当に大丈夫か?普通に歩けるようになるのか?」と、先生に聞いて来いって言っていたそうです。
あんまり何度も言うものだから、さすがに母もしつこく先生に聞くわけにもいかず、
「そんなに心配なら自分で聞いて来い!(怒)」ってキレたらしいですが…。
そんなこんなで、私の入院生活は家族の生活に大きな影響を与えたことと思いますが、無事終えることができました。
◆ ちょっとタイムスリップしたような思い出話はいかがですか?
若い方には新たな発見が、同世代の方には懐かしい、そんなお話をご用意しております。
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【突然?隣の朝ごはん!】 [懐かしの話]
ふと思い出した、私が子供の頃のお話を紹介したいと思います。
子供の頃、私の家は決して裕福ではありませんでした。
今考えれば絶望的に経済的に困窮していたわけではないように思えますが、子供の頃の私はそんな客観的な判断とは別に、とてもこのことをコンプレックスに感じていました。
特に父親が子供のころから存在していた古い家に住んでいたことと食生活が貧弱だったことをとても気にしていました。
確かに絶望的ではありませんでしたが、裕福ではなかったというか収入が少なかったということではこんなエピソードがあります。
父と母がまだ若かった頃のお話。
個人としては異例の税務調査を受けたということです。
税務署員が言うには、「こんな収入で家族が暮らせるわけがない。」
「だからきっと所得をごまかしているんだろう?」
という論理で調査を受けたということです。
私の父も母も『馬鹿』がつくほど正直者ですから、もちろんそんなことはしていませんでした。
とにかく「質素倹約」の家でした。
ですから税務署員の方々の様な高給取りの生活はしておらず、収入が沢山なくても成り立っていたのです。
この税務調査の時は、「実際生活しているんだ」と不器用な説明をしてお引き取り願ったようです。
母は「失礼な話だ」とちょっと不機嫌にそのことを教えてくれました。
さて、そんな我が家の食生活は本当に質素でした。
子供の頃、よく母からはこんな風に説明されました。
「上を見ればキリがない。下を見てもキリがない。だから人の家が贅沢してもウチはこれでいい。」
というようなことでした。
子供心に欲しいものを買ってもらったりメニューに名前のついている食事がしたいって思ったものですが、時々わがままを言っても従わざるを得ないと思っていました。
ある日、小学校3年生くらいだったと思いますが家庭科の授業で食事について勉強することがありました。
栄養素がどうとか、そういうことです。
どんな食事にビタミンAが含まれているとか、そういうことを生徒に理解させるために先生は工夫してくれて生徒に今日の朝ごはんのメニューを発表させることになったんです。
何人か指されて今日の朝ごはんを紹介していきました。
私は授業で答えがわかるととにかく発表したくてうずうずしてしまう性格の生徒でしたが、その時ばかりは違いました。
私は心の中で『絶対俺を指すなよ』って祈ってました。
しかし、その思いもむなしく、私は先生に指され、今朝の献立をみんなの前で発表する羽目になりました。
「ごはん…。」
「ん、ごはんか?」
先生は、私の言葉を繰り返し、他のクラスメートの時と同じように、黒板に書きだしていきます。
「それから?」
私はできるだけゆっくりと、
「じゃがいも…。」
そう自信の無い声で続けました。
「ん、じゃがいも。」
黒板にじゃがいもと書き出されていきます。
「きゅうり…。」
また、黒板に…。
書き終えて、少し笑いながら振り返り先生は、
「はるくん、材料を聞いてるんじゃないよ。どんな献立って訊かれたら、肉じゃがとか、サラダとか、そうやって言うの、わかるでしょ?」
「はい…」
私は特にそのまま言い返しもせず返事だけしました。
そのまま先生は次の生徒を指して授業は進みました。
私はホッとしました。
その日はじゃがいもの味噌汁とおしんこだけの朝ごはん、いつもそんな感じだったので、それを知られたくなかったのでそんな風に答えました。
貧乏に対して極度なコンプレックスを持っていた私は食生活の貧弱さが貧乏の証しみたいな気がしていたので、とにかくその時は『我が家の献立』を知られたくなかったのです。
ウソをついて適当に言っても良かったのですが、何故かそれはできませんでした。
困った挙句に、あの様に材料を並べ立てることにしたんです。
それが質問の意味とちぐはぐなのはわかっていたけれど、味噌汁とおしんこ、って言うのが、当時の子供心には、『決定的』な気がしたんです。
今考えれば、そう大したことではないですが、当時の私は本当にこんなことをクラスメートに知られるのは一大事って考えたんです。
そして、今考えると…
ウソをついてしまうのも、我が家の今朝の献立を知られてしまう以上に私のコンプレックスを傷つけるものだと思ったんではないかと思います。
それをやってしまったら、『本当に負け』みたいな…。
子供ってときどき思いもよらないことを言う時がありますが、大人には理解できなくてもいろんな葛藤の中で自分なりの優先順位で決定して言葉を選ぶ時がある、そんな風に思います。
そして恐らく30年も経っても私がそのことについて覚えているということは、きっとそういうことって本人の中では結構大事なことだったりするのかなって。
私は子供の頃、好きな料理を食べて無くなってしまうと、文字通りお皿を舐めたり、大好きな梨を食べてしまうと皮にこびりついている身を食べようとするような、はしたない子供でした。
それはよく子供がやってしまうことだったと思います。
でも父親は子供がそういうことをしているのを見るととてもいやがり注意されました。
子供は別にひもじくてやっているのではないのですが、父はそういう姿を見るのが嫌だったのかもしれません。
父は子供の生活に口うるさくいう父親ではありませんでしたが、「みみっちぃ」ことをすることにだけは口うるさかった気がします。
今思うと…
あの時、朝の献立をウソを言ってしまったら「負けだ」って、私が思ったように、「それをやったら負け」みたいな、『父のライン』だったのかも?と、ふと思いました。
私は父のこういうところが好きでした。
裕福じゃなくても、そのことを愚痴ったりせず、いつも節約するにはどうするかを考え実行する人でした。
決して強い上昇志向があるとかそういうんじゃないのだけれど、だからと言って諦めムードでもない。
そして、あるものの枠内でどうにかする、そういうのが好きでした。
前にもお伝えしたかもしれませんが、昔のドラマ『北の国から』に出てくる主人公純のお父さん、黒板五郎さんにイメージがちょっと重なるんですよね。
『ぼろは着てても、心は錦』って言葉がありますが、ちょっと、いや、だいぶニュアンスが違うんですよね。
なんとも表現しづらいですが、もっと黙々としたというか、いちいち人に言わず、黙々と自分のスタイルを貫くような…。
ちなみに学生時代に、たばこを買いに行くのが面倒で、シケもく(一度吸ったタバコ)を父親の前で吸ったことがあります。
その時は父親に「そんなことするなら、タバコなんか吸うのやめちまぇ!」ってスゴイ剣幕で怒られたことがあります。
きっと父のスイッチが入ったんだと思います。
その時は、「別に金がないとかじゃなくて…」と、言い訳しましたが、「そんなことは関係ないっ!」って更に怒らせてしまいました。
さて、食事に話に戻しますと…
私は旅行会社の営業マン時代、とても安月給で家賃2万6千円のおんぼろアパートに住んでましたが、食費を削るということだけはしませんでした。
ほぼ全部を外食していました。
面倒とかではなく、『メシだけはちゃんとしたものを食いたい』って思っていたのです。
過酷な重労働でしたから、それは私の生活を支えていたので病気にもならず良かったのかもしれませんが、私は健康を気遣ってそうしていたわけではなく、どんなに質素な生活をしてても、『メシだけは人並みに…』
そんな欲求が根底にあったのではないかと思います。
それは、その後もずっと続きました。
結婚しても同様でした。
決して贅沢な食事をすることもありませんでしたが、食費を切り詰めることだけはしませんでした。
私の中では、食事ってそういうものなんだと改めて思います。
子供の頃、私の家は決して裕福ではありませんでした。
今考えれば絶望的に経済的に困窮していたわけではないように思えますが、子供の頃の私はそんな客観的な判断とは別に、とてもこのことをコンプレックスに感じていました。
特に父親が子供のころから存在していた古い家に住んでいたことと食生活が貧弱だったことをとても気にしていました。
確かに絶望的ではありませんでしたが、裕福ではなかったというか収入が少なかったということではこんなエピソードがあります。
父と母がまだ若かった頃のお話。
個人としては異例の税務調査を受けたということです。
税務署員が言うには、「こんな収入で家族が暮らせるわけがない。」
「だからきっと所得をごまかしているんだろう?」
という論理で調査を受けたということです。
私の父も母も『馬鹿』がつくほど正直者ですから、もちろんそんなことはしていませんでした。
とにかく「質素倹約」の家でした。
ですから税務署員の方々の様な高給取りの生活はしておらず、収入が沢山なくても成り立っていたのです。
この税務調査の時は、「実際生活しているんだ」と不器用な説明をしてお引き取り願ったようです。
母は「失礼な話だ」とちょっと不機嫌にそのことを教えてくれました。
さて、そんな我が家の食生活は本当に質素でした。
子供の頃、よく母からはこんな風に説明されました。
「上を見ればキリがない。下を見てもキリがない。だから人の家が贅沢してもウチはこれでいい。」
というようなことでした。
子供心に欲しいものを買ってもらったりメニューに名前のついている食事がしたいって思ったものですが、時々わがままを言っても従わざるを得ないと思っていました。
ある日、小学校3年生くらいだったと思いますが家庭科の授業で食事について勉強することがありました。
栄養素がどうとか、そういうことです。
どんな食事にビタミンAが含まれているとか、そういうことを生徒に理解させるために先生は工夫してくれて生徒に今日の朝ごはんのメニューを発表させることになったんです。
何人か指されて今日の朝ごはんを紹介していきました。
私は授業で答えがわかるととにかく発表したくてうずうずしてしまう性格の生徒でしたが、その時ばかりは違いました。
私は心の中で『絶対俺を指すなよ』って祈ってました。
しかし、その思いもむなしく、私は先生に指され、今朝の献立をみんなの前で発表する羽目になりました。
「ごはん…。」
「ん、ごはんか?」
先生は、私の言葉を繰り返し、他のクラスメートの時と同じように、黒板に書きだしていきます。
「それから?」
私はできるだけゆっくりと、
「じゃがいも…。」
そう自信の無い声で続けました。
「ん、じゃがいも。」
黒板にじゃがいもと書き出されていきます。
「きゅうり…。」
また、黒板に…。
書き終えて、少し笑いながら振り返り先生は、
「はるくん、材料を聞いてるんじゃないよ。どんな献立って訊かれたら、肉じゃがとか、サラダとか、そうやって言うの、わかるでしょ?」
「はい…」
私は特にそのまま言い返しもせず返事だけしました。
そのまま先生は次の生徒を指して授業は進みました。
私はホッとしました。
その日はじゃがいもの味噌汁とおしんこだけの朝ごはん、いつもそんな感じだったので、それを知られたくなかったのでそんな風に答えました。
貧乏に対して極度なコンプレックスを持っていた私は食生活の貧弱さが貧乏の証しみたいな気がしていたので、とにかくその時は『我が家の献立』を知られたくなかったのです。
ウソをついて適当に言っても良かったのですが、何故かそれはできませんでした。
困った挙句に、あの様に材料を並べ立てることにしたんです。
それが質問の意味とちぐはぐなのはわかっていたけれど、味噌汁とおしんこ、って言うのが、当時の子供心には、『決定的』な気がしたんです。
今考えれば、そう大したことではないですが、当時の私は本当にこんなことをクラスメートに知られるのは一大事って考えたんです。
そして、今考えると…
ウソをついてしまうのも、我が家の今朝の献立を知られてしまう以上に私のコンプレックスを傷つけるものだと思ったんではないかと思います。
それをやってしまったら、『本当に負け』みたいな…。
子供ってときどき思いもよらないことを言う時がありますが、大人には理解できなくてもいろんな葛藤の中で自分なりの優先順位で決定して言葉を選ぶ時がある、そんな風に思います。
そして恐らく30年も経っても私がそのことについて覚えているということは、きっとそういうことって本人の中では結構大事なことだったりするのかなって。
私は子供の頃、好きな料理を食べて無くなってしまうと、文字通りお皿を舐めたり、大好きな梨を食べてしまうと皮にこびりついている身を食べようとするような、はしたない子供でした。
それはよく子供がやってしまうことだったと思います。
でも父親は子供がそういうことをしているのを見るととてもいやがり注意されました。
子供は別にひもじくてやっているのではないのですが、父はそういう姿を見るのが嫌だったのかもしれません。
父は子供の生活に口うるさくいう父親ではありませんでしたが、「みみっちぃ」ことをすることにだけは口うるさかった気がします。
今思うと…
あの時、朝の献立をウソを言ってしまったら「負けだ」って、私が思ったように、「それをやったら負け」みたいな、『父のライン』だったのかも?と、ふと思いました。
私は父のこういうところが好きでした。
裕福じゃなくても、そのことを愚痴ったりせず、いつも節約するにはどうするかを考え実行する人でした。
決して強い上昇志向があるとかそういうんじゃないのだけれど、だからと言って諦めムードでもない。
そして、あるものの枠内でどうにかする、そういうのが好きでした。
前にもお伝えしたかもしれませんが、昔のドラマ『北の国から』に出てくる主人公純のお父さん、黒板五郎さんにイメージがちょっと重なるんですよね。
『ぼろは着てても、心は錦』って言葉がありますが、ちょっと、いや、だいぶニュアンスが違うんですよね。
なんとも表現しづらいですが、もっと黙々としたというか、いちいち人に言わず、黙々と自分のスタイルを貫くような…。
ちなみに学生時代に、たばこを買いに行くのが面倒で、シケもく(一度吸ったタバコ)を父親の前で吸ったことがあります。
その時は父親に「そんなことするなら、タバコなんか吸うのやめちまぇ!」ってスゴイ剣幕で怒られたことがあります。
きっと父のスイッチが入ったんだと思います。
その時は、「別に金がないとかじゃなくて…」と、言い訳しましたが、「そんなことは関係ないっ!」って更に怒らせてしまいました。
さて、食事に話に戻しますと…
私は旅行会社の営業マン時代、とても安月給で家賃2万6千円のおんぼろアパートに住んでましたが、食費を削るということだけはしませんでした。
ほぼ全部を外食していました。
面倒とかではなく、『メシだけはちゃんとしたものを食いたい』って思っていたのです。
過酷な重労働でしたから、それは私の生活を支えていたので病気にもならず良かったのかもしれませんが、私は健康を気遣ってそうしていたわけではなく、どんなに質素な生活をしてても、『メシだけは人並みに…』
そんな欲求が根底にあったのではないかと思います。
それは、その後もずっと続きました。
結婚しても同様でした。
決して贅沢な食事をすることもありませんでしたが、食費を切り詰めることだけはしませんでした。
私の中では、食事ってそういうものなんだと改めて思います。
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【年賀状作成マシン ~プリントゴッコのあの頃~】 [懐かしの話]
年賀状と言えば…
張り切って取り掛かる人、つい億劫になって大晦日などに書く人、いろいろだと思います。
最近はメールの普及で、年賀状をメールに切り替えた人も多いかと思います。
我が家は現在はワープロでイラスト入りの年賀状を作っています。
子供が小さい頃は写真入り年賀状を印刷屋さんに頼んだりしていましたが、
最近はパソコンで便利に作っています。
さて、我が家ではパソコン版、印刷屋さん版の前は、もっぱらこれが活躍していました。
プリントゴッコです。
理想科学のヒット商品です。我が家の年末の風物詩でした。
家庭用プリンタが普及するまでは、可愛い年賀状を作る定番のアイテムでした。
お持ちではありませんでしたか?
プリントゴッコと言えば、コレ!
フラッシュライトです。
こういうのに、セットして原稿をメッシュに焼き付けるんですよね。
そんでもって、こういうインクをねちょ~って塗って、
これでバンバン印刷して、
こんな風に乾かす。部屋中、ハガキだらけになりました。(笑)
いつも妻とアイデアを出し合って作るのですが、結構良くできたのは2回刷りをした時の作品です。
当時の作品があれば写真をアップしたいところですが、もう15年以上前の話ですのでさすがに…。(^_^;)
背景に千代紙から取った模様を透かしの様にうっすらと入れて、その上にお正月っぽい絵と文字で年賀状を書きました。
ワープロに比べると工程が理科の実験っぽいので出来上がると結構な達成感というか、満足感に浸れました。
さて、このプリントゴッコですが、調べてみたら、今年(2012年)の12月28日で、理想科学はプリントゴッコ事業から撤退するそうです。
既に2008年にはプリントゴッコ自体の販売は中止されているとのことですが、
これとか
これとか
消耗品販売は儲からないながらもユーザーのために続けてきたようですが、さすがに需要が少なくなって事業としての継続を断念した様です。
プリントゴッコは1977年(昭和52年)に発売されたということです。
私が小学生の時です。
そして、ピーク時の1987年には年間で72万台を売り上げたそうです。
会社を代表する花形商品だったんでしょうね。
年末になるとコマーシャルやってましたもんね。
私は勝手にプリントゴッコがダメになってこの会社、大丈夫なんだろうか?って思いましたら、理想科学工業は東証一部上場企業で年間売上750億円の大企業だったんですね。
業績的にはなかなか厳しいようですがプリンタやインクジェットなどの事業をやっているようです。
是非、プリントゴッコに代わるような画期的な商品を開発して欲しいものです。
張り切って取り掛かる人、つい億劫になって大晦日などに書く人、いろいろだと思います。
最近はメールの普及で、年賀状をメールに切り替えた人も多いかと思います。
我が家は現在はワープロでイラスト入りの年賀状を作っています。
子供が小さい頃は写真入り年賀状を印刷屋さんに頼んだりしていましたが、
最近はパソコンで便利に作っています。
さて、我が家ではパソコン版、印刷屋さん版の前は、もっぱらこれが活躍していました。
プリントゴッコです。
理想科学のヒット商品です。我が家の年末の風物詩でした。
家庭用プリンタが普及するまでは、可愛い年賀状を作る定番のアイテムでした。
お持ちではありませんでしたか?
プリントゴッコと言えば、コレ!
フラッシュライトです。
こういうのに、セットして原稿をメッシュに焼き付けるんですよね。
そんでもって、こういうインクをねちょ~って塗って、
これでバンバン印刷して、
こんな風に乾かす。部屋中、ハガキだらけになりました。(笑)
いつも妻とアイデアを出し合って作るのですが、結構良くできたのは2回刷りをした時の作品です。
当時の作品があれば写真をアップしたいところですが、もう15年以上前の話ですのでさすがに…。(^_^;)
背景に千代紙から取った模様を透かしの様にうっすらと入れて、その上にお正月っぽい絵と文字で年賀状を書きました。
ワープロに比べると工程が理科の実験っぽいので出来上がると結構な達成感というか、満足感に浸れました。
さて、このプリントゴッコですが、調べてみたら、今年(2012年)の12月28日で、理想科学はプリントゴッコ事業から撤退するそうです。
既に2008年にはプリントゴッコ自体の販売は中止されているとのことですが、
これとか
これとか
消耗品販売は儲からないながらもユーザーのために続けてきたようですが、さすがに需要が少なくなって事業としての継続を断念した様です。
プリントゴッコは1977年(昭和52年)に発売されたということです。
私が小学生の時です。
そして、ピーク時の1987年には年間で72万台を売り上げたそうです。
会社を代表する花形商品だったんでしょうね。
年末になるとコマーシャルやってましたもんね。
私は勝手にプリントゴッコがダメになってこの会社、大丈夫なんだろうか?って思いましたら、理想科学工業は東証一部上場企業で年間売上750億円の大企業だったんですね。
業績的にはなかなか厳しいようですがプリンタやインクジェットなどの事業をやっているようです。
是非、プリントゴッコに代わるような画期的な商品を開発して欲しいものです。
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【「ダイヤブロック」~ 一生に一度のサンタのプレゼント ~】 [懐かしの話]
だんだんと街はクリスマスムードになってきましたね。
今年はまだ聴いていない様な気がしますが、そろそろ山下達郎の『クリスマス・イブ』やワム!の『ラストクリスマス』が流れてくるんでしょうね。
「これでもか!」って言うくらい流れますが、私はどちらの曲も好きなので悪くない気分になります。
皆さんにとってのクリスマスソングってどんな曲なんでしょうか?
ユーミンの『恋人はサンタクロース』やマライア・キャリーの『恋人たちのクリスマス』、稲垣潤一の『クリスマスキャロルの頃には』なんてのも定番ですね。
さて子供たちは、サンタクロースからのプレゼントが何よりも楽しみですよね。
皆さんには、『思い出のクリスマスプレゼント』ってありますでしょうか?
私は、『ダイヤブロック』が思い出のプレゼントです。
何故かと言いますと、子供の頃にもらった唯一のクリスマスプレゼントだからです。
我が家は神道と仏教を基本とした家庭でしたので、クリスマスを祝うという風習はありませんでした。
別に神道や仏教がバリバリに浸透していた家庭というわけではありませんでしたが、クリスマスは伝来することはありませんでした。
ですから、思い出の『ダイヤブロック』もサンタクロースにもらったわけではなく、父親と一緒にオモチャ屋さんに買いに行ったのです。
サンタさんも伝来していないところには来ることが出来なかったんでしょうね(^^;
ちなみにそんな家庭で育った私達兄弟ですが、兄も私もキリスト教の幼稚園に通っていました。
はっきり理由はわかりませんが、月謝が安く教材やお揃いの衣類がほとんどなくコストパフォーマンスから選択されたのではないかと勝手に想像しています。
ですから私は讃美歌も歌いましたし、毎日イエス様にお祈りをしていました。
毎日一つづつ増えていくお祈りのフレーズを一生懸命に憶えたというところまでは憶えていますが、フレーズは一つも思い出せません(^^;
ただ音楽だけは体に染み付いているのです。
ですから私にとっては、思い出のクリスマスソングは『もろびとこぞりて』です。
当時は全く意味が判らず歌っていましたが…
さて、そんな幼少期の私のクリスマスでしたが、とても楽しみな日でした。
クリスマスツリーもクリスマスケーキもプレゼントもないクリスマスでしたが、クリスマスには毎年お寿司をとってくれたからです。
私の中では、『ご馳走』と言えば『出前のお寿司』がずっと不動の地位を占めていました。
ですから私にとってはクリスマスって、『世界で一番おいしい食べ物が食べられる日』だったのです。
父は大してお寿司には手をつけず、熱燗をちびちびやりながら、「ほら、食え、ほら、食え」という感じでした。
がつがつとお寿司を食べる子供の姿を見るのが何よりのご馳走だったのかな?なんて、今は思うことがあります。
そんな、『純和風』な我が家の聖夜でしたが、そうは言ってもクリスマスケーキやトリのもも肉などが食卓を飾ることもごく稀にありましたので実は多少は我が家にもクリスマスは伝来していたのかもしれません。
ただ、ホントに稀でした。
それにひきかえ、『出前のお寿司』は、クリスマスには絶対!でした。
皆様は、どの様にお過ごしになりますか、今年のクリスマス…
当ブログを初めてご訪問の方でご興味ある方は是非どうぞご覧ください。
今年はまだ聴いていない様な気がしますが、そろそろ山下達郎の『クリスマス・イブ』やワム!の『ラストクリスマス』が流れてくるんでしょうね。
「これでもか!」って言うくらい流れますが、私はどちらの曲も好きなので悪くない気分になります。
皆さんにとってのクリスマスソングってどんな曲なんでしょうか?
ユーミンの『恋人はサンタクロース』やマライア・キャリーの『恋人たちのクリスマス』、稲垣潤一の『クリスマスキャロルの頃には』なんてのも定番ですね。
さて子供たちは、サンタクロースからのプレゼントが何よりも楽しみですよね。
皆さんには、『思い出のクリスマスプレゼント』ってありますでしょうか?
私は、『ダイヤブロック』が思い出のプレゼントです。
何故かと言いますと、子供の頃にもらった唯一のクリスマスプレゼントだからです。
我が家は神道と仏教を基本とした家庭でしたので、クリスマスを祝うという風習はありませんでした。
別に神道や仏教がバリバリに浸透していた家庭というわけではありませんでしたが、クリスマスは伝来することはありませんでした。
ですから、思い出の『ダイヤブロック』もサンタクロースにもらったわけではなく、父親と一緒にオモチャ屋さんに買いに行ったのです。
サンタさんも伝来していないところには来ることが出来なかったんでしょうね(^^;
ちなみにそんな家庭で育った私達兄弟ですが、兄も私もキリスト教の幼稚園に通っていました。
はっきり理由はわかりませんが、月謝が安く教材やお揃いの衣類がほとんどなくコストパフォーマンスから選択されたのではないかと勝手に想像しています。
ですから私は讃美歌も歌いましたし、毎日イエス様にお祈りをしていました。
毎日一つづつ増えていくお祈りのフレーズを一生懸命に憶えたというところまでは憶えていますが、フレーズは一つも思い出せません(^^;
ただ音楽だけは体に染み付いているのです。
ですから私にとっては、思い出のクリスマスソングは『もろびとこぞりて』です。
当時は全く意味が判らず歌っていましたが…
さて、そんな幼少期の私のクリスマスでしたが、とても楽しみな日でした。
クリスマスツリーもクリスマスケーキもプレゼントもないクリスマスでしたが、クリスマスには毎年お寿司をとってくれたからです。
私の中では、『ご馳走』と言えば『出前のお寿司』がずっと不動の地位を占めていました。
ですから私にとってはクリスマスって、『世界で一番おいしい食べ物が食べられる日』だったのです。
父は大してお寿司には手をつけず、熱燗をちびちびやりながら、「ほら、食え、ほら、食え」という感じでした。
がつがつとお寿司を食べる子供の姿を見るのが何よりのご馳走だったのかな?なんて、今は思うことがあります。
そんな、『純和風』な我が家の聖夜でしたが、そうは言ってもクリスマスケーキやトリのもも肉などが食卓を飾ることもごく稀にありましたので実は多少は我が家にもクリスマスは伝来していたのかもしれません。
ただ、ホントに稀でした。
それにひきかえ、『出前のお寿司』は、クリスマスには絶対!でした。
皆様は、どの様にお過ごしになりますか、今年のクリスマス…
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〔当ブログのご紹介〕
◆ 「このブログってどんなサイトなの?」「管理人のはるとはどんな人?」 『はるのたわごと』ってこんなブログです
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記事を最後までお読み下さり
ありがとうございました <(_ _)>
ありがとうございました <(_ _)>
【作文‥‥いつも居残りで書かされていた思い出しか無い私がこうしてブログなんて書いています】 [懐かしの話]
私は子供の頃、作文がとても苦手でした。
読書感想文なんて、大抵「あらすじ」ばかり書いてしまって、
授業中に「悪いお手本」として紹介されていました。
作文の時間はいつも時間内に終わらず休み時間まで唸りながら、結局ちゃっちゃっちゃと書いて、どうしようもない意味不明の文章の完成です。
そんな私がブログなんて書いています。
内容や作文のレベルは当時と大して変わりませんが「作文の題材」に困ったことがないことが当時と違います。
なんとなく、これ書いてみようって閃いたりするんですよね。
何故、こんな話を書いたこと言うと、本日初めて「ブログネタ」に行き詰ったからなんです。
このブログを始めて何か月か続けてきて、あれこれ書いてきたからネタが尽きたと言えなくもないのですが、本日も、一応、何個か題材が浮かんだことは浮かんだのです。
どうも「気乗り」しないというか、書いても面白くないなぁ(書き手側として)って思っちゃって、どうしようかなぁって持て余していたら…。
なんか懐かしい感じがして…。
そう、作文で何を書いていいか、堂々巡りをしていた小学生時代を思い出したんです。
いろんなところが私に似ている息子が宿題で作文や日記に悪戦苦闘している姿を見ると、「まるでタイムマシンだ‥‥」って思っちゃいます。
尋常じゃないくらい「産みの苦しみ」にもがいているようなんで(笑)
まぁ、子どもなんてみんな作文苦手なんですかね…
さて、日記の方はどうかというと…
これも本当に苦手でした。
宿題だけでもできないのに、ときどき何を思ったか、「日記を付けよう!」なんて思い立って書き始めるものの3日続けばいい方です。
そんな私が唯一続いたのが、高校生の頃に書いていた「一行日記」でした。
生徒手帳にカレンダーのページがあって1日一行づつ予定を書き込める欄があって、そこにその日にしたこととか感想みたいなことを毎日書いていました。
「今日は疲れたー」とか、「眠い!」で終わっちゃう日もあったのですが、とにかく1年間欠かさず書いていた記憶があります。
たぶんそれが私の日記最長記録です。
ですから、このブログ、私にとっては実は驚異的です。
とにかく、「毎日」とか「続ける」とか、そういうことが大の苦手の私が、大の大人というかおっさんなんですが…
ほぼ毎日「作文」をこんなに書いてるなんて…。
今日は、とりあえず自分で自分を褒める日にしたいと思います。(#^.^#)
◆ ちょっとタイムスリップしたような思い出話はいかがですか?
若い方には新たな発見が、同世代の方には懐かしい、そんなお話をご用意しております。
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